老子講義 第五十六章より
2025.11.13
老子講義 第五十六章より
訳
宗教(信仰)の道は
言葉として知らせるのではなく
その全人格を持って知らせるものである
もう少し翻訳すると・・・
宗教(信仰)の道とは、言葉として伝えるものではない。
その人が日々どのように生き、何を体現しているか──
その 全人格そのものによって示される ものである。
と言う意味とします。
に対して、所感としては以下です。
よく「思考は現実化する」という表現が用いられるが、
体験的に言えば、現実を動かす力の本質は「思考」ではなく「信仰心」である。
ここで言う信仰心とは、
単なる宗教的・観念的な“信じ込み”ではなく、
その人の存在の中心に置かれた
・生き方の軸
・揺るがぬ確信
・価値観の根幹
・世界観への深い信任
を指す。
つまり信仰心とは、
「自分はこう生きる」「世界はこう成り立っている」と
揺るがずに選び続けている内的態度である。
そして、この信仰心が強いほど、
内側の世界観と外側の現実の結びつきが太くなり、
結果として現実化の速度が格段に早くなる。
信仰心を「目標設定」へと翻訳し、
それを本人の内側から引き出していく営みがコーチングである。
対して、他人が目標を外側から与えたり、代わりに語ったりすれば、
それは本人の価値軸から切り離され、依存と歪みを生み、洗脳の構造へと変質する。
目標とは、本来 本人自身の言葉で語られて初めて、
主体と世界観が一致した「信仰心」として力を持つ。
老子第五十六章において語られる「言葉ではなく存在で知らせる」という教えは、
まさにこの構造と通底している。
外側の言葉ではなく、
内側に定まった確信と世界観──
つまり「信仰心」が、本人の全人格に滲み出て、まわりの現実に影響を与える。
この章の短い九文には、
信仰・存在・現実化・依存と自立の構造など、
実に多くの示唆が含まれている。